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12月

03

2013

大阪 梅田北エリア再開発

2013年4月26日、「うめきた」の先行開発区域「グランフロント大阪」が開業を迎えた。「うめきた」はかつて「梅田北ヤード」と呼ばれ、JR大阪駅の北側に所在する旧梅田貨物駅跡地を中心とする地域であり、2011年に実施された公募・投票により再開発地域の新しい名称として決定した。「グランフロント大阪」の竣工で新たな局面を迎えた「うめきた」の現在をリポートする。

 

バブル前夜の再開発構想と長らく続いた雌伏の時期

「うめきた」の旧通称である「梅田北ヤード」の再開発計画に関しては、そもそもの発端が1987年(昭和62)と、じつに27年前にさかのぼる。この年4月1日、旧国鉄の分割・民営化が実施されたのに伴い、当時の「国鉄清算事業団」では、赤字解消のために梅田貨物駅の売却を決定した。貨物機能については吹田操車場跡地へ移転させる計画が発表され、梅田貨物駅跡地には大阪のテレビ局5局を集めるという「メディアシティ・フォーラム」などの再開発構想がさかんに唱えられた。当時はバブル経済前夜ということもあり、経済界のみならず多くの日本人がごく当たり前のように明るい未来像をイメージすることができた時代であった。

それから5年――バブル崩壊の荒波が日本を襲った。年号は昭和から平成へと変わり、1992年(平成4)には旧大阪鉄道管理局が取り壊され、更地となった。だが、貨物駅の移転予定先でのトラブルなどもあり、再開発計画が停滞を余儀なくされることとなる。1994年(平成6)には同跡地にゴルフドームが建設されるが、わずか2年後には解体され、ふたたび更地となる。そしてその翌年である1997年(平成9)、同跡地への入札が行われ、ヨドバシカメラが落札を勝ち取った。さらに翌年から翌々年にかけて、20世紀末、ようやく貨物駅機能の移転計画が具体化する。国鉄清算事業団と関係自治体などの間で基本協定が結ばれ、貨物機能の移転計画がようやく合意にこぎつけたのである。

こうして21世紀最初の年となった2001年(平成13)11月、落札から4年余を経て同跡地に「ヨドバシカメラマルチメディア梅田」が開店した。同店は、首都圏を中心に展開してきたヨドバシカメラにとって、西日本への店舗展開のカギを握る大型旗艦店として計画された。開店前には、さまざまな要素からその成否を危ぶむ声も聞かれたが、結果的には、単独店舗による家電量販店としては日本最大規模の売上を誇っている。

 

長年の懸念材料が払拭され、先行開発区域が始動する
「グランフロント大阪 タワーA」と「同・タワーB」の間にある大通り

「グランフロント大阪 タワーA」と「同・タワーB」の間にある大通り

「ヨドバシカメラマルチメディア梅田」の成功を受けて、「梅田北ヤード」ではふたたび再開発の気運が盛り上がるようになってきた。いまだバブル崩壊後のいわゆる「失われた10年」の影響が抜けきらぬなか、2002年(平成14)には「大阪駅北地区国際コンセプト」のコンペティションが開催される。同コンペの結果は翌年発表され、大阪市による「大阪駅北地区全体構想」も公表された。さらに翌年には、「大阪駅北地区まちづくり推進協議会」が設立され、大阪市は「大阪駅北地区基本計画」を公表したのであった。

そして2005年(平成17)を迎え、いよいよ再開発計画が本格的に始動する。同年10月29日には着工記念式典が開催され、その3日後の11月1日には先行開発地区の「ナレッジ・キャピタル・ゾーン」への入居者募集がスタートした。12月に入ると、大阪市は先行開発区域の容積率を200%から最大800%に緩和することを決定した。

「グランフロント大阪 タワーA」の足元に広がる「うめきた広場」の朝

「グランフロント大阪 タワーA」の足元に広がる「うめきた広場」の朝

2006年(平成18)は春先からさまざまな動きがあった。足かけ20年におよぶ懸案事項であった旧梅田貨物駅の貨物機能移転問題がようやく決着を迎え、後顧の憂いは払拭された。同年5月には先行開発区域B地区の開発事業者が決定し、7月には同地区の土地譲渡予約契約が締結された。続いて9月には先行開発区域A・C地区の開発事業者の募集が開始され、11月上旬までに開発事業者が決定すると、同地区の土地売買契約が締結された。そして翌2007年(平成19)6月には残るB地区の土地譲渡契約が締結され、先行開発区域A・B・C地区の土地の引渡しが完了したのである。

この時期、日本経済は復興を遂げ、一部では地価が上昇に転じ、「プチバブル」などと囁かれていた。海の向こうでは「サブプライム・ショック」が騒がれ始めていたが、日本への直接的な影響はほとんど見られなかった――2008年(平成20)9月、日本のみならず世界を震撼させた、あの「リーマン・ショック」までは。

 

27年目の一期工事完了引き続き全体竣工を目指す
二期開発区域とされる旧梅田貨物駅跡の更地。線路の向こうに梅田スカイビル

二期開発区域とされる旧梅田貨物駅跡の更地。線路の向こうに梅田スカイビル

「リーマン・ショック」による日本経済の失速は、軌道に乗りかけた「梅田北ヤード」再開発にも暗い影を落とした。だが、この時点ですでに20年以上も動いてきた計画であり、その間に関係者たちは幾度も危機に直面し、そのたびに乗り越えてきたのだ。

2010年(平成22)3月30日、ついに先行開発区域の工事が着工した。同年6月以降、国内外の大手企業が相次いで同地区への移転計画を発表する。「梅田北ヤード」はもはや夢の再開発地区ではなく、現実の計画対象地区となったのである。そして翌2011年(平成23)2月2日には公募していた同地区の正式名称が「うめきた」に決定する。この直後に発生した東日本大震災の影響も大阪までは波及することなく、同年4月21日には先行開発区域の施設名称が「グランフロント大阪(GRAND FRONT OSAKA)」に決定。同時にロゴマークも発表され、さらに期待は膨れ上がった。約1年後の2012年(平成24)3月14日には事業主12社によるA・Bブロックのビル3棟の上棟式が行われ、同年4月11日には入居するテナントの一部が発表された。そして同年10月3日、「グランフロント大阪」の内部が報道陣に対して公開され、同時に商業エリアの概要が発表された。

そして迎えた2013年(平成25)――1月16日には「グランフロント大阪」を構成する各棟の建物の名称が大阪駅側から順に南館(タワーA)、北館(タワーB、タワーC)と命名され、同年2月20日には「グランフロント大阪」の広場やオープンスペースの名称も決定された。同年4月18日には「グランフロント大阪」の竣工式が開催され、同24日のプレオープンを経て、同26日、ついにグランドオープン(街開き)の日を迎えたのである。

足かけ27年におよぶ計画は、ここにようやくその一期工事を完了した。今後は近い将来を目標として、全体の開発工事の竣工を目指していく。

 

大阪 梅田北エリアの再開発計画

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